社会の枠組みから外れるという枠組み

 ひとつの形が作られてしまえば、模倣や改造など追従するひとびとが現れ、けっきょくそれも一つのテンプレートになってしまう。自分らしくあろうとする人間は、いったいどれほどの共通項でくくれるだろう。真似をしないのは難しいから、それは当然とも言えるかもしれません。真似た事柄の組み合わせによって個性が演出される。こんなことを考えてしまうのは、僕がテンプレートからしか自他を評価できないからなのでしょう。

 

 映画「ハーモニー」を観ました。とても好きです。原作の雰囲気とすごく合っていて、原作も好きな僕にすぐ馴染みました。観ている間、原作を読んでいるときのような感覚が戻ってきて、そして読んだときのように「善とはなんだったんだ......」と思ってしまいました。また、意志の不在から自然人の話を思い出して、闘争状態の場合も幸福でいられるのかなとも考えます。人間の定義を意志とする考え方には肯定と同意を持ちますし、精神のほうが古いデバイスになる喩えも好きです。映像の話からだいぶ逸れてしまいましたが、ここまでにします。

早寝早起きができたら、朝は朝で持て余しそう

 寝つきが悪くなってきました。横たわっていても数時間は眠れないままで、以前のような不穏な心情にはならないのですが、ともあれ穏やかに横たわっています。

 しんどいわけでもなく、翌日に仕事があっても正午からなので、あまり懸念はしておりませんが、もういっそ午前三時まで何かしていようかなあと思ったり。

 

 仕事のほうは順調です。常連さんが僕の顔を覚えてくれてきて、気軽にしゃべれそうになってきています。人見知りは相変わらずです。教えてもらうこともだいぶ減って、徐々に自分から参加していくところもあって、勤務日の前日やその朝も嫌な気持ちになることなく過ごせていて、日々の一部として好きなものになっていっています。

そのうち自分が手の内におさまるようになると医者が言っていた

 スクーターで職場まで30分弱、道路のことも気にしながら運転しつつも、視界に飛び込んでくる景色をつい眺めてしまいそうになります。時間が許す限り、路肩に寄って眺めます。日常の質感を好きになってしまったようです。

 精神薬を服用していた時期は、お薬の作用もあって感覚すべてを鈍らせていました。それはとても助かっていましたが、断薬した後はあんまり五感が過敏になったものだから、慣れるまでにかなり消耗しました。現在も過敏なままですが、ある程度の必要な情報とノイズの傾向がわかってきて、あらかじめ対策をしておけば多少はやりやすいです。

 

 仕事中に思ったことなのですが、理性と感性が一致したときのしっくりくるのは、自分の一部として馴染んだ顕れなのかなあと思いました。理性は「言葉で思っていること」、感性は「言葉なく思っていること」と置き換えてください。

 言葉で説明できるあることが感覚として腑に落ちて、またその感覚を言葉で説明するときに違和感がない状況を「一致した」と思います。そういう部分を増やしていきたいなあ。

考え事と日記

 前回に引き続き、強者と弱者のひとつの形の話です。

 老人を老人扱いすることをなんとなく変に思っていて、「〜〜できたのすごいね」「〜〜だったのよかったね」みたいな褒めてあげる感じに違和感があって、やっぱり老人も作られた立場なのかなあと思いました。そしてこどもも。

 大人になるというのは、何者かをひとくくりに弱者として扱い始めることが、ひとつの条件なのかな。あーあ。

 でも「〜〜できたのすごいね」と言われて、とても嬉しそうにしている方を見ると、僕の考え方は間違っているのだろうと否定する根拠になるのですが、どうしても違和感が消えないです。わからない。見定められない。

 

 日記としても復活したいので、今日は両方書いておきます。

 スクーターで山登りをしました。ところで周囲のひとはよくバイクと呼んで、次に原付と呼ぶひとがよくいて、僕はスクーターと思っているけれどもそう呼びづらいです。

 先日に地図を眺めていたら近くの道が山への入り口になっていることを知って、今朝になって登ってみようかなと決めました。舗装された道はすぐに終わり、でこぼこの山道をゆっくり登っていました。砂利ならまだよくて、拳くらいの大きさの石がごろごろあるようなところは降りてアクセルを軽くかけながら押しました。頂上への道がわからず、山道を進んでいると尾根を降りる形になり、貯水池のようなところに着いて引き返しました。見晴らしのいいところには行けませんでしたが、木の間から下の方が見えるところもあって、すこし気持ちよかったです。

 山を登っているとデジャビュに遭うことがしょっちゅうあります。なぜだろう。

 疲れた感覚も薄く、印象に残った景色や出来事も淡く、しかし徒労というほどでもない。どことなく心地よかった。また、なんとなく行こうかなあと思ったら簡単に行ってしまいそうなところでした。

戦場にされてしまうこと

 強者や弱者という立場は、その表明をする人間が作るものではないのかと思うようになりました。

 見下す人間が弱者を作る。見上げる人間が強者を作る。人間は強者と弱者にはじめから分類されているのではなく、自分の立場だけでなく相手の立場すらも自分が決めてしまえるということだと考えます。

 

 僕はよく見上げられたり見下げられたりします。勝手に勝負に引きずり込まれて、勝手に勝たされたり負かされたりする。そうされたら逃げ出したくなってしまって、放っておくことがほとんどなのですが、やはり内心では穏やかではいられません。

 自己評価が低い僕としては、特に見上げられてしまったときに僕がいかにだめなのか説明したくて仕方なくなり、お互いに自分を低くし合う勝負へと移ることもあって、それもやはり嫌だから黙って流してしまいます。

 

 やだなあ。

京都滞在2

 残りの時間のほとんどは京都でお世話になったひとびとに会っていました。挨拶回りのようでも、当たり前のように会えていた時間を思い出しながら、当たり前のように話しました。これからも、その当たり前のように久々に会うというのを続けるよう努めたいです。

 暮らしていた辺りを歩くと、当然のように歩いていた頃を思い出してしまって、どうしても旅行然としない。あのひとと久しぶりに会う、あそこへ久しぶりに行くといった目的は生活とは離れているけれども、やはりここは土地もひとも僕の生活があふれていて、離れて一年も経っていないのに懐かしくなりました。

京都滞在1

 先日三泊四日で京都へ行ってまいりました。大阪でディープパープルのライブがあって、ついでに何泊かしようと滞在地を京都に選びました。

 大学に在籍していたときに住んでいたので、住んでいた土地への旅行とは変な気分です。馴染み深い路線に乗った瞬間から懐かしさがあふれて、いつも通りにやっていたことをやるだけなのに処理しきれないほど感情的になってしまいました。

 以前働いていたゲストハウスに荷物を置いて、大阪へ向かいました。フェスティバルホールというところでライブが行われるのですが、数年前にリバーダンスをそこで観ていたので、こんなに毛色の違うものが行われることに驚きます。会場に着くと、客の年齢層や装いがいかにもで、どこか安心しました。

 演奏はすごく楽しかったです。最初から最後までワクワクが止まらなくて、中高生のころに感じていたワクワクがよみがえり、すごく好きでいたバンドが目の前で演奏していることが信じられませんでした。音の振動が身体をビリビリと刺激して、それが実際の場にいることを突きつけられて、やっぱり彼らは目の前にいるのだと思えました。隣に座っていた客も、右隣では座っているのに身体を揺らしていて、左隣では頭を前へ前へと突き出してお腹の前で手拍子をしている。僕は呆然としつつも踵でリズムをとっている。

 1960年代から活動していて、その当時に好きになった若いひとびとが今も集まって楽しく聴いているのが本当にすごいことで素敵なことだと思うと、敬愛してしまいます。僕自身、今はなんとか創作を仕事にできないかと悩んでいるところで、とにかく前へ進んでみようと思った日になりました。