好きの感情について

 前回に関連します。

 好きだと思っている対象を並べてみると、同じような「好き」は少ない気がします。

 音楽を例にします。あの曲はメロディが好き、あの曲は進行の文脈が好き、あの曲は歌詞が好き、あの曲は音色が好き......など好きな点で話し始めても種類はたくさんあって、それにひとつの曲でいくつの好きの要素が含まれるかでさらに複雑になる。

 聴き方で考えると、あの曲は何度も聴き返していたい、あの曲は思い出したときに聴いて楽しみたい、あの曲は夏の入りに聴きたい、あの曲はこんな気分のときに聴きたい、など。

 好きの種類を挙げたら、最初は全く好きでなくても徐々に馴染んでゆく、激しく欲してすぐに手放す、日常のなかにゆるやかに組み込まれている、必要というには足りないけれどもなかったら寂しい、好きで好きでたまらない、などどんなふうに好きでいるか説明することもできます。

 

 なにが言いたいかというと、一番好きな曲はなにか、一番好きなミュージシャンは誰か、なんて尋ねられたら答えられないので、最近はこれこれをよく聴いていますとしか言えません。

 同じ質感の曲がないのだから、当然とも言えるかもしれませんが。

 好きの感情といったものを知ることは難しいけれども、好いた対象にどのように働きかけているかは捉えることができるので、とりあえずその話でした。

 

 嫌いについてもそのうち。

好きなものについて

 自己紹介するときに、趣味などの好きなことを言うのが苦手です。簡単に言えば多趣味で、読書、音楽鑑賞、映像鑑賞、工作、物書き、楽器演奏などと挙げだしたらキリがないです。読書に限って言えば、小説も詩も漫画も好きですし、小説に限定すれば純文学も古典もミステリもSFもライトノベルも児童小説も好きです。「くくり」で話すにはどの枠組みを持ち出して話すとよいのか、常に迷います。

 好きなものはさまざまなところに散らばっていて、それをジャンルで分けて話すことがまず難しく、しかしそれでは紹介することすらままならなくなってしまう。

 苦手や嫌いもあって、それもあちらこちらに散っているものだから、同じように難儀してしまいます。

 

 こういった話は自己紹介の場面の他にも趣味の話をするときに登場して、話し相手の好きなことを聞くときや自分が話す場面があります。例えば魚釣りが好きなひとの話を聞いていて、僕はほとんど経験がない状況で聞いていると、相手が「釣りのなかでどういったことに楽しさを見出しているか」を知ることが僕の中ではとても楽しいです。釣りについて聞くというより、そのひとを知るために釣りの話を聞いているような。といっても釣りの話をしているので「それは僕も好きそうだなあ」とか「進んではやりたくない」とか「一生関わらなさそう」とか思いながら聞いています。

 好きなことを嫌いになることもあり、逆もありますが、それ以上に関心のなかったところの変化の仕方がとても大きいような気がしています。他人から僕が無関心であったところを楽しそうに話しているのを聞くと、僕の興味を広げる機会にもなって、話を聞きつつも質問攻めにしてしまうことがよくあります。

 

 そう考えると、博愛主義とは言えないものの、好きになりうるものを貧乏性のごとく抱え込んでいるとも言えて、まあなんとも渇望の満たされないことよ。

尊重する話

 共通の趣味の話ではよく「あれがいい」「こっちのほうが」となることがあります。そういった仲の良い喧嘩ができたらなあと思いますが、ある程度の信頼関係のある間柄でしかできないと考えています。

 親しみを覚えているけれど、まだ信頼しあうほど話をしていない方と趣味の話をしていて、好きなものが一致したり、一致しなくても「それもいいねえ」と言い合ったりして、どことなく喋り口に親近感を覚えました。異なることは異なっているだけで、そこに良し悪しを持ち込まない姿勢を感じられて、たぶんそこが近いのかなと。

未来系の呪縛

 未来に自分がある形になることを抑制するために、呪いのような考えを持っています。

 子供の頃からいままで、過去の行動を振り返って「考えが足りなかったから反省しなければ」と思うことがよくあって、過去の自分と現在の自分は同一であることを認めているけれども、その行いを誤ったものとして変化を求める姿勢が続いています。

 もし将来、過去の行動を振り返って「あの頃は若かった」など言いつつ、満足げな表情で思い返すことは絶対にしたくない。間違いと認めていながら、それを受け入れてしまうほどに自分が出来上がってしまうことは、終わってしまうことと同義であると思う。終わるまでの自分と、そのあとの自分は地続きであるはずなのに、全くの別人のように語る自分を想像すると、憎くてしかたないです。

 だから、今のうちに呪いをかけておく。

 

 将来では、呪いをそのままかけ続けているかもしれないし、解けないことに悩んでいるかもしれない。今もっとも恐れている形になっているかもしれないし、まったく想像していない形で呪いを解いているかもしれない。あるいは。

お話を描く話

 文学フリマ東京に向けて短編を書いていました。数年前に思いつきで、ちょっとした空想話を書いてみたところ、どこかが僕に馴染んだ感覚があって、それ以降はどうにか実体験でないお話を書いてみたいと思い続けていました。しかし、そうするとあまり面白い設定が思い浮かばなくて、テキストエディットの正確に点滅する棒を眺めているばかりでした。

 さらにその数年前、昔の中国の寓話で「混沌に目と耳と鼻と口の穴を開けていったら混沌が死んだ」といった旨の話を思い出して「僕は僕の中の混沌を時間をかけて殺してしまったのだなあ、どうにかまた息をさせたい」とぼんやり考えていました。

 時系列がバラバラですが、今から数ヶ月に高島野十郎展に行って、写実的なのに抽象画を見ているような、そしてそのうまく言い表せない抽象さが琴線に触れて、僕はこういったことをしたかったのだと気付きました。描写を突き詰めていけば、一度殺した混沌を元の姿にしてあげられるかもしれない。その方法を文章でやりたい。それは質感であってトリックや美観ではない。

 

 今回の短編が上手に描けたかはわかりません。でも、僕はこれを続けたい。

理想とリスク

 だいぶ前のゼミでの教授と助教の会話なのですが、

 「この本、すごく理想を語っているよね」

 「そうですね。最近はこういう発言が少なくなりましたね」

 「では今は何を語っているんだろう」

 「リスクじゃないですか」

 「確かにそうだ」

 といった旨だったことを憶えています。

 

 ただ、最近は理想を語る人間も増えたのではないかなあと感じます。その代表例は「好きなことをやれ」です。

 理想もリスクも僕にとっては息苦しく聞こえてしまいます。どちらとも目標に向けて進むことを意味していて、どちらにも停滞や撤退が含まれない。

 理想を語ることが増えたとはいえ、当然リスクを語ることも多くあって、両方が同時に働きかけてくる構図で生きていると、窒息しそうです。

 たぶん「理想を語る人間とリスクを語る人間がいる」というより「理想をリスクを語る人間がいる」状況にあって、果たしてどれほどの人間が理想とリスクを矛盾させずにいられているのだろうと考えてしまいます。

 両立不可能ではないと思いますが、なんでも理想にすることはできるし、なんでもリスクを見出すことができることを考えてしまうと、板挟みというより両側から引き裂かれるような印象を持ってしまいます。

他人を理解する話

 理解する行いをあまり優先しなくなりました。理解するまでの流れの中で事物が減衰していくことや、理解している主体のあいまいさが、その行為を半透明にしてしまう。だから、理解したという気持ちしかクリアではない。積極的に理解しようとするのは、その気持ちを手に入れたいからなのかもしれません。

 

 他人とは分かり合えない、という考えが自分の中で育ってしまって、他人への興味は尽きないものの、通じ合うことにあまり重きを置けず、ただ慕っているから慕う、嫌っているから嫌う、興味がないから離れるというふうになりました。

 

 たぶん「わかり合う」が指すのは「ある文章を、それぞれが違う質感で感じ取っているが、それぞれが肯定する」くらいのニュアンスなのかもしれないです。確証のない共有、くらいの。

 

 他人は理解し得ないけれど、ゆえにコミュニケーションは一生終わらせずにいられる。