呼吸を調律する

 近頃だいぶつらくなっていて、それで街に出てしまいました。祖父母宅へ行くつもりで、母と待ち合わせるため母の職場に近いショッピングモールに電車で向かいます。それにしても様々な雲が浮かんでいて、立体的な奥行きを持った空は好きです。梅雨が終わったような天気でしたが、雲は夏ではないので梅雨はこれからです。人間が暮らす空間はとにかく意味を持つ物体が多すぎて、情報が多いとノイズが多くて処理できません。よく空を見上げるのはそのせいだと、ふと思いました。

 モールの楽器店で時間を潰していると音叉を発見しました。以前読んだ漫画で、聴覚過敏な少年が音叉を耳に当てると気分が落ち着くという描写があって、真似をしてみようと買ってみました。結果は大当たりで、しんどいときはよくパニックになるのですが、その兆候が現れたときに音叉の音を聞いていると、意識をそれだけに持っていくことができて効果が大きかったです。投薬をやめて以来、感覚が過敏になってしまい、とくに聴覚はよく悩まされます。

 音叉は440Hzのものですが若干の倍音を含んでいるように聴こえ、長い持続音の聴こえ方が変化してゆくのも面白いです。それと気分によって聴こえ方も違って、同じ音が聴こえていても「こんなに高かったっけ」「こんなに低かったっけ」と思いました。音楽の基準となっている音を確かめながら支えにするのだなど考えていると、ジョジョ素数を数える神父のことを思い出しました。彼もきっと素数に孤独の基準を置きながら確かめていたのだなど思ってしまいます。

 さほど縁がなかったものが初めて触れた瞬間から、自分と一致する感触があることが稀にあって、音叉はそのひとつになったようです。その前は原付でした。自動車教習所で乗る機会があって、希望して講習を受けているとすんなり馴染んだ手応えがあって、いまは一番好きな乗り物です。この一致する感覚は、欠如が満たされたというよりも、自分の定まっていないところに形を与えてくれたと言ったほうがよいです。

作業は深夜に熱中しやすい

 昨晩はお絵かきをしていました。冬目景さんの「羊のうた」一巻表紙を色鉛筆で模写していました。絵を描くことへの抵抗がすくなくなってきましたが、やっぱり人物はまだ抵抗が大きいです。

 午前四時ほどまで粘りましたが半分ほどしか進まず、人物は線の拾い方しだいで全然印象が変わってしまうため、雰囲気を残すようにするのがとても難しかったです。とくに冬目さんの描く表情は奥行きがあって、模写しながら人物の性格を表す線や色を見ながら美しさを感じていました。

 音楽でも、実際に弾いているときに感じられる美しさというのもあって、それに近い印象です。

 

 今日はその仕上げまでして、あとはだらだらしていました。

一日の記憶が薄いのはほとんど何もしなかったから

 寝入りが悪い日が続きます。眠れる気配がなく、布団に入ってずっと待っていても退屈だし、でも何かをして眠気を待っていたらどんどん夜更かしをしてしまいそうな気もする。結局どちらにせよ、空が白んでいるまで起きていてしまいます。今朝は松村栄子さんの「001にやさしいゆりかご」を読んで、不安による息苦しさを感じながら明けた朝に寝入りました。

 

 その不安というのは、将来に向けた努力によってなりたい自分になれたとしても、それが幸福をもたらすとは限らない、というものです。努力したからにはどうしても報われたいと思ってしまうから、やはりその不安は呼吸をしづらくします。向かいたい目標が近頃できて嬉しかったのですが、しかし昔から持っていた逃避の意味合いも残っていて、そこへ着いたときに満足はあるのかは、遠くにある以上わかりようがなく、ただただ歩みが遅くなってしまいます。

 もしそこに、退屈や倦怠ばかりがあって、たとえ劇的な日々だったとしても静かな日々だったとしても、生活そのものから遊離してしまっていたら。

 本では逃避からそのような結末へ向かっていたため、とても身にしみながら読んでいました。松村さんの本はとても好きです。たまに琴線に触れすぎて苦しんでしまうけれども。

所属の話

 言葉に置かれている意味はゆっくりと変わっていって、自分自身が置いている意味や、周囲のひとびとが置いている意味もゆるやかに動いてゆく。

 例えば「日本」という国を指す言葉は、日本という言葉を使う文脈の違いから、グローバリズムを想像するひとがいたり、ナショナリズムを想像するひとがいるように見えます。国を指すということは、国の単位で物事を考えていて、つまり他国との比較と結びつきやすいのだと思っています。なんとなく飛び込んでくる情報から察するに、数年前までグローバリズムの流れが大きかったけれども、今はナショナリズムなのかなあと。もうずいぶん文化的なグローバル化も進んでいて、そして民族的なアイデンティティが云々。話が逸れたので、そろそろやめます。

 僕はといえば帰属意識が淡く、日本という言葉に大した意味を置けないでいます。場所を指す言葉には、知り合いの誰彼がいるくらいにしか思えず、ほとんどの知り合いは日本にいるわけですから、やはり意味を置きづらい。集団の単位で人との関わりを見出すわけでもなく、所属によって判断できることが少なすぎるというのもあります。

 たぶん、このような考え方のひとも周囲にはいて、集団や場所による所属の話をしないひとびとは、関心ごとの向け方が僕に近くて話しやすいのかなあと思っています。まあそういった話をしない以上、そうであるかは判断できませんがしなくてもよいと思っております。

 自分とは違う考え方だなと思うひとと話すたび、その違和感と突き止めるために考えを巡らしてしまうことは悪癖なのかもしれません。

問いかけること

 テレビや新聞、街角の演説者、大衆に紛れこむ強い善意に動かされるひと。身近には多く問いかけが飛び交っています。

 考えるように強制されている、態度を表明するよう強制されている、と思うこともしばしばあります。それら問いかけによく使われる言葉は、ただひとつの名詞を聞くだけで問いを想像できてしまうようになってしまいます。そして、その単語たちは僕にとって強い働きかけをもつようになっています。問題となっているのは確かなことで、しかし誰が何を問題とするのかは無視されやすい。問いかけるひとは、答えないひとを悪人とすることができるのだろうか。

 

 僕はこうやって悩んでいることを投稿することもあるわけだけれども、これもある種は問いかけているとも言えて、どうしたものかなあ。ごめんなさい。

罪を憎まず罪を働いた者を憎む

 ここ数日しんどくて、あまり活動できていません。やっぱり鬱っぽいときは生活を落としてしまって、一日の記憶が薄いです。

 仕事先に箱を作って持っていくことになって、今日は材料を切って染めてました。それほど大変な作業でもなく、普通に動けば1時間で済むことを4時間かけていました。

 夜、料理をすこししました。ニョッキをいうやつらしい。食べたこともなく作ったこともなく馴染みないものですが、思いの外シンプルで作りやすかったです。なんとなくオシャレ料理っぽいなあと思いつつ、馴染むようなら取り入れたいとも。

 僕にとってオシャレは褒め言葉ではないです。広く使われている言葉が合わなかったときの難儀さといったら。

 

 嫌な人間に出遭ったら、その日の楽しかった記憶もすべて押し流されてしまい、難しいものです。それぞれの記憶が独立していたらいいのに。あるいは楽しい記憶が嫌な記憶を押し流してくれたら。ほとんど天災みたいなものだと思います。

おもむろに動く植物

 なんとなく気分がすぐれなくて、ほとんど一日横たわっていました。軽い鬱状態のような感覚で、頭も体も動けませんでした。経験上、夕方くらいには活動しやすくなるだろうと思って、その通りになりました。

 

 動けなさを知らないひとに伝えることは難しいですが、普段の頭から生活を送るほとんどがなくなったような感覚です。ちょっと植物状態に近づいた感覚です。カーテンを開けようという発想が消え、お腹が空かずご飯を作ろうと思うこともなく、用事があっても忘れているか思い出しても義務感ばかり先走って体は一向に動かないかで、そういう意味で生活が頭から消えてしまうのです。尿意など差し迫った欲求だけ意識できて、そのほかのことは考えることもできない。スケジュールなどの都合で用事に対する義務感があればあるほど、動かない体との乖離感が激しくなり、苦しみが増してしまう。

 

 幸い今日はまったく用事がなかったため、ぼんやり横たわっていました。