言葉尻をとらえてから本題へ

 生きているというのはとても抽象的な言い回しで、生きているから脈をとることができるし、生きているからごはんを食べたりするし、生きているから目的なく出掛けて歩きながら目的を作ってしまったりします。でも脈をとって生きていることを確認することができても、生きているということを覆っているわけではない。

 生きている実感をつかむのはたいへん難しく、やはりもっと大きな対立するものをもってくるとよいでしょう。希死念慮がつよいときこそ、生きていることそのものを見渡せるはず。そんなときに生きていることを実感して、たいそう憎くなってしまうものだから、肯定的に生きていることを実感するのは生活の中には現れにくいです。

 生きていてよかったというのも、やはり過去に死に瀕したことでもあるひとの台詞でしょうか。この言い回しだと、生きることを選択したとも受け取れます。

 死をゼロというなら生はなんだろう。イチにして二進数でもつくるつもりか。とりあえず生を任意の正の数だとして、無から生じて無に帰るというのも、さらっととんでもないことを言っていますね。

 死にたいと思うことも、大事な感情であると思う。もし自己否定しかできないひとがいたとして、その感情さえも否定してしまったのならば。あるいは自死を達成することでその感情を肯定してあげられたのならば、と思うとかなしくなる。死にたさを肯定した上で死なないようにする路はあるかもしれませんが、よくわかりません。

 

 いま僕は死にたいわけでもなく、生きたいと思うわけでもなく、それでいて二択の中で宙吊りになっているわけでもないです。生きているから今日は髪を切ってもらって、そうめんを茹でて、スクーターのエンジンオイルを買って、家出したねこを家の前で拾って、曲を作りたいなあと思いながら横たわって、ようするに生活をしていました。生命活動の現代風の略っぽいですね。生きているから生活があって、生活があるから生きている。これは生きている実感のひとつの形かもしれません。生活をしている実感というのも、とてもあいまいですが。