他人を理解する話

 理解する行いをあまり優先しなくなりました。理解するまでの流れの中で事物が減衰していくことや、理解している主体のあいまいさが、その行為を半透明にしてしまう。だから、理解したという気持ちしかクリアではない。積極的に理解しようとするのは、その気持ちを手に入れたいからなのかもしれません。

 

 他人とは分かり合えない、という考えが自分の中で育ってしまって、他人への興味は尽きないものの、通じ合うことにあまり重きを置けず、ただ慕っているから慕う、嫌っているから嫌う、興味がないから離れるというふうになりました。

 

 たぶん「わかり合う」が指すのは「ある文章を、それぞれが違う質感で感じ取っているが、それぞれが肯定する」くらいのニュアンスなのかもしれないです。確証のない共有、くらいの。

 

 他人は理解し得ないけれど、ゆえにコミュニケーションは一生終わらせずにいられる。