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存在にすらも価値を与えようとする存在

 早起きは失敗しました。

 

 僕の場合、言葉にするものは「やっと形になったから言葉にもしておく」ものが多いかもしれません。僕のなかで当然すぎるものは、表明しなければならないとき以外は言う必要がないでしょうし。

 

 最近やっと形にできたものもあって、僕たちは価値を置く行為自体に価値を置きすぎではないかと。もしかしたら価値づける対象よりも。「価値」を「意味」に置き換えても同じ意味になります。

 どんな行為にも価値さえ置いてしまえば、行うことの正しさを保証するような役割にされやすい。些細なことにも、この行為にはこんな意味があると考えて行動する(あるいは過去を振り返る)のは、あるていど合理的であることは認めますが、その合理性が見落としていることを考えると、僕はその見方を避けたくなります。よく言われる合理は無機的ですが、見落としたものを拾っていくと、僕が思っている有機的な合理になると信じたいです。

 なんというか、正しさの保証というのは、安心を得るためのものではなく不安から逃れるためのものなのかなあと考えます。

 

 資本主義を否定するわけではないのですが、資本主義社会に暮らすひとびとの思考は、かなり資本主義的であると思います。価値をつくること、リスクを基準に判断すること、消費することなど、とてもそれっぽいです。