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仮想敵について

 頭の中に仮想敵がよく現れて、なにかを声高に主張して僕に問いかけ命令します。現れたらもう反駁を繰り返すしかなく、ひとりでただただ消耗していきます。

 

 そんなのただの空想ですぐにやめられるということはありません。仮想とは空想のひとつで、現実に起こっていないことではありますが、仮想するという行為を僕は現実に行っています。想像とはあくまでも僕にとってはある種の実感を伴った行為です。

 

 仮想敵と何度となく打ち倒したり打ちのめされたりしていますが、出現をやめる気配はどこにもなくて、それは僕の中に仮想敵を生み出す機構があるということなのでしょう。

 

 思ってしまったのであれば、僕の頭の中ではどうしようもなく生まれてしまったものであり、そして対処しなければならない。たとえこの世界のどこにもそんなことを言う人物がいないとしても僕の中にはいる。それを「ただの想像だからすぐに否定できる」ということは決してありえない。

 

 仮想とはある現象をもとに一般化することです。もし仮想敵を生み出すことをやめるとするならば、まず思いつくのは「なにかを一般化すること自体をやめる」ですが、人間の仕組みでこれは不可能です。では「仮想敵になりうる現象を一般化することをやめる」のは可能か。これは「仮想敵になりうる現象がどういったものであるか一般化する」ことを意味して、つまりこれまで「仮想敵A,B,C...」と対処していたものを「仮想敵全体」とくくって対処してしまおうというもの。僕自身まだ試みたことのない一般化ですが、もしかしたら可能かもしれません。以降は推論です。

 

 個別の経験で「これは嫌だな」と思うことがあれば「どういったことが嫌なのか考えない」ことが必要なのかもしれません。経験の中から要素をとりだしてしまうと、その要素が含まれる経験を一般化してしまうことになり、仮想敵が生じる。個別のことを個別として対処するのであれば、こういった悩みはなくなりそうです。きっとそうなってもほかの悩みがあると予想されますが、ここから抜け出したいのであれば試してみる価値はありそうです。

 

 ですが、対話の都合上、嫌だと思ったことは「なぜ嫌なのか・どういったことが嫌なのか」言わないと相手に伝わらない上に説得力がなく、かなり難しいことです。察することを求めるのは怠慢ですし、自分が察しすぎるのも毒です。

 

 人間関係を構築する上で「なぜ・どういったことが嫌なのか」表明しなければならないとすると、取り出した要素を一般化しなくてもいいように「一度でそれをやめてもらうこと」が必須になります。もちろんお互いの都合を考慮しなければ単なる我儘になってしまいますが「一度くわしく説明すればやめてくれるひとたち」という仮想敵の反対に当たる存在が生まれることになる。要素を取り出さなければならないのならば、それを一般化しないようにしなければならない。

 

 この話をまとめると「仮想敵を生じさせないような人間関係を築く」ということになりそうですが、知り合いでもないひとと喋るときに困りますね。「初対面であれ、ほんのわずかな会話であれ、よい関係を築く」ことができたらいいのですけれど。とりあえずは身近なところから仮想敵が生じる環境をぶちのめしたいところです。