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返却するDVDを持たずに街へ行った話

 こういうときになぜか過去の思考がどっとあふれます。

 

 客観性をもちたい時期があって、ようするに主観というか自分に辟易してしまったんですが、まず客観とはなにかと考えました。長考の末、客観があるかどうかはわからないが主観から抜け出すことは不可能と結論づけました(主観で考えているのに!)。次に、完全な客観性を得られなくても、主観を否定し続ければ段階的に主観を離れ客観に近づくという擬似的なことをしはじめて(主観で主観を否定するとは!!)、最終的には、客観性に価値を置いてしまっている主観の存在に気付いて「もうだめだ!!!」と思ったところまでの一連の流れを思い出しました。たぶん5年分くらいの悩みで、つらいときにつらかったときのことを思い出してどうするんでしょう。

 

 最近は多少の諦めもあって、自分がふたりいるというと語弊がありますが「自分」を「制御している・できる部分」と「そうでない部分」というふうに自分をどちらから見るか分けて考えるようにしています。例えばさきほどの話の主観が行う価値判断は「できる部分」よりも「そうでない部分」の方が圧倒的に根本から揺るぎない方向づけを与えます。「自分で考えてやった価値判断」と「勝手に判断されてそれに従った行動」とでは大違いですね。この作用は気付くことはできても制御の外にあって、しかも「制御できるところ」が「できないところ」に従うのは、ままならん。僕は後者のことを「神秘的領域」と呼んでいます。勝手に。

 

 家にDVDを回収しに帰ったら、街へ用事のある父が代わりに返しに行ってくれるとのことでした。ありがたい。だけど僕の一日は!