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言葉尻をとらえてから本題へ

 生きているというのはとても抽象的な言い回しで、生きているから脈をとることができるし、生きているからごはんを食べたりするし、生きているから目的なく出掛けて歩きながら目的を作ってしまったりします。でも脈をとって生きていることを確認することができても、生きているということを覆っているわけではない。

 生きている実感をつかむのはたいへん難しく、やはりもっと大きな対立するものをもってくるとよいでしょう。希死念慮がつよいときこそ、生きていることそのものを見渡せるはず。そんなときに生きていることを実感して、たいそう憎くなってしまうものだから、肯定的に生きていることを実感するのは生活の中には現れにくいです。

 生きていてよかったというのも、やはり過去に死に瀕したことでもあるひとの台詞でしょうか。この言い回しだと、生きることを選択したとも受け取れます。

 死をゼロというなら生はなんだろう。イチにして二進数でもつくるつもりか。とりあえず生を任意の正の数だとして、無から生じて無に帰るというのも、さらっととんでもないことを言っていますね。

 死にたいと思うことも、大事な感情であると思う。もし自己否定しかできないひとがいたとして、その感情さえも否定してしまったのならば。あるいは自死を達成することでその感情を肯定してあげられたのならば、と思うとかなしくなる。死にたさを肯定した上で死なないようにする路はあるかもしれませんが、よくわかりません。

 

 いま僕は死にたいわけでもなく、生きたいと思うわけでもなく、それでいて二択の中で宙吊りになっているわけでもないです。生きているから今日は髪を切ってもらって、そうめんを茹でて、スクーターのエンジンオイルを買って、家出したねこを家の前で拾って、曲を作りたいなあと思いながら横たわって、ようするに生活をしていました。生命活動の現代風の略っぽいですね。生きているから生活があって、生活があるから生きている。これは生きている実感のひとつの形かもしれません。生活をしている実感というのも、とてもあいまいですが。

記憶する僕はどうぞ自由になさってください

 このごろ徐々に落ちたり落としたりしておりますが、どうにか拾ったり拾われたりしてもいます。PCに向かうのが億劫になってきたり、音楽を聴くのが難しくなってきたり、なんというか治療方針が移りつつあります。

 生活の中にある景色や音や匂いなどさまざまに感覚を向けていると、幼い頃に感じていた違和感を思い出します。生活のすべてに馴染めていなくて、常にどこかがずれているような違和感。西陽の差す部屋の温度だったり、草や水や土の匂いだったり、自分の熱量だったり、それらがどうにも他所のことのような遠さだったけれども、同じ感覚を近いものとして受け止めているように思えます。

 思い出そうとして思い出せることは、言葉にならない観念(出来事へ僕が与えた意味や感情)がほとんどで、次に視覚のような気がします。逆に、匂いや感触は思い出す引鉄になりやすく、匂いから風景を、感触から観念をといったように現実感が強く、どうにも呼び起こされる記憶は鮮明です。聴覚はその中間、あるいは中心にいる印象で、味覚はよくわかりません。

 能動的に思い出せる記憶は、それぞれが紐で結ばれて関連付けされているため連動して思い出せるのですが、整頓が意味不明です。呼び起こされる記憶は、きれいに保管されているけれども片付けた場所がわからないような。どちらもままなりません。

会話ができないから独り言を聴いてもらいたい

 出どころのわからないしんどさがいつのまにか滲みだしていて、一体なんなんだとしょぼくれてしまうし、なにかのせいにしてしまえば楽になったりするのかなと思ってしまいます。先日の「大丈夫そう」はどこへ。

 

 街に出掛けたらノイズがどっさりあって、意識が遠のいたり地面がやわらかくなったり、やわらかいのならば横になったら楽かなあと思ったり。

 

 具体的な悩みもあって、さほど知らないひととの会話が成立させられないことです。受け答えを丁寧にしようとすると、細かい描写が気になって考え込んでしまうし、自分の中では面白いはずの冗談も全く伝わらなくて、もうほんとTwitterの独り言が量産できるのとはわけが違う......

箸の転び方が面白く思えた

 正午から仕事だけどその10分前に目覚めて、連絡したところ慌てずゆっくりおいでと言われ、きっとそう言ってくれるだろうと思って連絡する前も後も穏やかでした。大雨だったから家の車を借りて、ダッシュボードからやや折れ曲がっている初心者マークを取り出して無理やり貼り付けて出発しました。通勤中に風が吹いたら初心者マークが飛ばされてしまい、それがどこか面白くてしばらく笑っていました。

 大雨で平日だからかとても暇で、BGM代わりに適当にyoutubeでもみてよいことになり、なんとなく愉快そうな曲を聞いていました。ステファン・グラッペリバイオリンと、エラ・フィッツジェラルドの激しいスキャットは似ている気がして、クスクス笑ってしまいました。キャロル・キングのライブ映像をみていたら、CDからは想像できないほど壮大な「いかにもアメリカ」な演出をしていて、彼女はアメリカ人だったなと思うとそれも笑えたし、CD音源を聴き返してみると「いかにもアメリカ」が根にあることに気づいて、面白くて仕方なかったです。いかにもアメリカがあると思って聴くとそうとしか思えないし、あるとも思わずに聴いたら気づきづらい。すると店内がいかにもアメリカな雰囲気に思えてきて、いかにもアメリカな動きをしながら歩いたり皿を洗ったりしました。家に帰って聴き返すと、いかにもがあるように思えなくて、あれっ、なんだったんだ。

 

 六月は去年と同じようにどんどん駄目になっていくのかなあと思っておりましたが、そうならなさそう。

感性が幼児退行していないでもない

 とても気持ちが穏やかに一日を過ごせました。

 目覚めたときのつらさが薄く、昨晩なんとなく「鉄塔を見に行こう」と考えていたのを実行しに、電車で6駅先のところで降りて、残りは歩きです。夜中は雷雨で、今日は雨で引きこもっているかなあと思っていましたが、蒸し暑いほど晴れていました。

 駅を降りてすぐ、あたりに鉄塔が連なっているのがよく見えて、早速その方向へ歩いていくと、水田の真ん中に立っていて間を縫うように苗が植えられていたり、柵に囲われていたりして入れないところが多かったです。一箇所だけ、畑の中に突っ立っていて、農家の方に入っても良いか訪ねて承諾してもらったので潜り込みました。

 夏至らしく陽も高かったし、眩しくて汗も落ちてきて、でもとても居心地がよかったです。真上にはきれいな幾何学模様があって、整然としているものの美しさが頭上にあることが面白くてこそばゆかったです。雑然も整然も好きですが、ふつうの空に異様なまでの整然の影があるというのは、とても愉快です。

 降りた駅の隣の駅へ向けて歩いていると、古墳をみつけて気持ち悪い笑みをこぼしてしまいました。当然ですが古墳は大きくて、下から見上げても「なんか丘っぽい」としか思えないし、登っても「なんか広場っぽい」としか思えません。棺が見えるようにしてあるけど、やっぱり墓っぽく思えなくて、そのへんの丘でした。すごくいいですね、古墳。

 久しぶりにいい気分で一日が始まって、久しぶりに愉快なものたちに触れることができて幸運でした。

自分と付き合う分裂病

 行ってみたい場所や作ってみたいものなどが日々堆積してゆくのに、それらはご飯とかお風呂とかボンヤリに持って行かれてしまい、掘り返そうとしたときには深すぎて届かないかもしれない。

 今日もあれしたいなあ、これしたいなあ、と考えながらご飯とかお風呂とかボンヤリとか云々してなんやら諸々があり、夜中になってようやく我に帰ってしまいました。取り急ぎ、近所の行ってみたい場所をメモ帳に並べました。取り急ぎ。

 これらの意欲の向かっている先は、いつでもできて最優先ではないから、意欲が湧きあがっているときを逃さないようにしなければなりませんが、そういった機会は珍しいものですし、とにかく逃しやすい。きっかけを作って意欲を満足させてやらねば、満たされなかったそれらが焦燥へ変わってゆくので、やはり今日の取り急ぎはちゃんと叶えてやらねばいけないなあ。

実行できないのは条件が満たされていないから

 夜の過ごし方はどれも不自然になってしまって、ゆっくり過ごすにもそわそわしてしまうし、何か作業をしていると切り上げどきを見失いますし、短い作業にしても神経を刺激して眠りづらくなってしまうのではと思ってしまい、結局あやふやな過ごし方をすることばかりです。そしてあやふやに夜は更けていくし、あやふやに眠れずにいるし、あやふやに空が白んで、あやふやに蛙が鳴き止み、くっきりと雀が鳴き出す。いつも雀の声は鮮明で、一匹が鳴き始めるとあっというまに大量に鳴くようになって騒音とそれほど変わらなくなります。うるさいなあ、と思っていると気絶するように眠っていて、目覚めたら立ちくらんだような眩暈と耳鳴りがして、どうにも調子がよくないです。

 ちょっとした作業というか、習慣にしたいことは朝にしたいのですが、なかなか実行できずに今日もあいまいな夜へ突入しました。

 やりたくても出来ていないことは、始める以前の準備すら出来ていなくて、無理やりやってみたら二度目は遠いのだろう、と言い訳をします。準備ができていたら勝手に始まっているはず......